大分の有名な古戦場で戸次川の戦い跡を
見に行きました。
遠い異国で戦う
この戦いは豊後大友氏と豊臣連合軍対
薩摩軍の戦いで薩摩軍勝利で終わって
います。
ここで気になったのは何故長曾我部信親が
戦死しなければいけなくなったのか
という事でした。
遠い四国の南国市から大分まで来て
他人の戦いの為に何故死ななければ
いけなかったかと云う事が気になりました。
これからは自分(わたし)の私見が
かなり入り史実とは違うかも
知れなくなりますので
もし違ってもいつもの通り
「(* ̄- ̄)ふ~ん」程度でお読みください
戸次川の戦いと仙石秀久
戸次川の戦いは1587年12月12日に
大友・豊臣連合軍の敗退で終わっている。
この戦いでいつも問題になるのは
仙石秀久の采配のまずさですが
豊薩軍記に書かれている
「四国を指して逃げたり、三国一の臆病物」
と書かれているくらい臆病者だったのでしょうか
得意のウキペディアで仙石秀久を検索
あにはからんや、かなり優秀な人です。
信頼を受けています。
それでは「ごますり」だけで
大名になってきたのでしょうか
それも違うような気がします。
逃げた罪で高野山に追放になっています。
驚異の復活
それから驚異の復活をしています。
20名の家臣と三男の仙石忠正と共に
駆け付け活躍し秀吉から許されて
復帰したと書かれていました。
今でも箱根にある「仙石原」は
その時の活躍に由来するという
説もあるそうです。
このような優秀な人が何故
戸次川の戦いでは大きな選択ミス
をしたのでしょう。
人間わが身が一番
自分(わたし)はこう考えます。
1. 薩摩軍が思ったより強かった
薩摩軍の島津義久は優秀な武将で
得意の「釣り野伏せ」という戦法を
使い連戦連勝だった
2. カッコイイところを見せたかった
としてあくまでも自分の戦法
にこだわった
3. 真剣に戦う気が無かった
あくまでも、大友家の戦いで
自分は秀吉の軍監として参戦
4. 豊臣軍は仲が悪かった
豊臣軍の長曾我部と仙石・十河は
この戦の前までは敵同士で四国で
覇権を争っていた。
5.大友軍と豊臣軍は烏合の衆だった
逃げ帰り改易になるほど愚鈍
豊臣軍は分裂状態の連合軍
この5つが重なって敗戦し
仙石秀久が逃げるという行為に
結びついたと思います。
現代の企業を連想
何か、今の企業合併を連想させます。
銀行から出向してきた取締役が
会社の事情も知らずに
自分の出世の為に事を進めて
都合が悪く失敗しそうになれば
失敗を、自分は逃げて
他の優秀な人の責任にして
その人を追いやって
自分は時が来るまでじっと
身を潜め、社長や重役たちとの
コネクションは切らさず太くし
これぞという時に今までの
人脈を使い返り咲く
「集団左遷」の気持ちよさ
結局はその企業で2代目社長に
取り入って重要なポジションを
確保する
これが現代でも日本企業で
日常茶飯事に行われています。
取りなして事なきを得ます。
これから仙石家は安泰という事になります。
日曜劇場で福山雅治さんが主演の
「集団左遷」は、今までの日本企業の
慣習となっている人脈や派閥を
打ち破ってくれているという姿に
爽快さを感じるものだと思います。
Dreams come ture
「晴れたらいいな」